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   福岡藩精錬所

 勝海舟の『氷川清話』には「幕府時代に最も早く西洋に関心を抱いたのは長溥侯である。」と記されている。長溥公はペリー来航の折には米国の国書に対する幕府への建白書に、開国派として、通商を開くべきとの積極開国論を述べています。1847年(弘化4)には長溥公は中島町(現中洲)の南側畑の中、のちの「岡新地」と呼ばれる処に福岡藩精錬所を開きました。国防の観点から強力な大砲を積載した軍船建造が急務の目標であり、鉄砲、火薬の研究、ガラス、鉱物の研究などの他、時計や写真術、医薬品や博多織などの殖産事業も手掛けています。今でいう総合科学研究所でした。精錬所の総裁には藩の重臣吉永源八郎氏が任ぜられ、大神勝右衛門氏が現場主任、熊谷丈平氏が相談役で他に末永茂一郎氏が助役で参画していました。長崎より優秀な技術者を迎え、藩内の能力ある人物を長崎に送り出し、多岐にわたっての西洋技術習得に努めています。精錬所は、小銃の製造から硝子、陶器、青貝(あおがい)塗り、製薬、塗料などの製造、鉱物の分析から写真、時計の研究まで多種多彩でありました。