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   筥崎宮宿泊説

 箱崎地、天正15年(1587)6月7日薩摩から帰陣した豊臣秀吉公は筥崎宮八幡宮に宿陣し、20日あまり滞在したと云われます。宿舎について『豊前覚書』は肥前の幡(波多)氏、筑後の草野氏が、宿舎の造営にあたったという。秀吉公の宿舎は既存の建物ではなく、あらたに建設したものでありました。一方『黒田家譜』には「八幡宮本社の神殿をもって、秀吉公の御座所とし給う」という記述があり、秀吉公は八幡宮神殿を宿舎としました。当時乱世のため遷宮できずに別の仮殿に鎮座しており、「本社は空殿」だったので、これを御座所としたのだといいます。『豊前覚書』の成立は『家譜』に先行する元和元年(1615)ですから、信頼性が高いと思われます。なお、神殿宿泊説について『家譜』は「古来の云伝へ、また細川玄旨(げんし)筑紫紀行、神屋宗湛が茶会記にも見え侍れば、うたがふべからす」と述べています。このように、当時から神殿宿舎説には異論があったかもしれません。