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   筥崎宮裏参道鳥居(Ⅱ)

 一方、平岡浩太郎氏というと福岡藩士・平岡仁三郎氏の次男として、嘉永4年(1851)に福岡市地行に生れる。号は玄洋、内田良平の叔父。藩校修猷館に学ぶ。明治11年(1879)12月、箱田六輔氏、頭山満氏、進藤喜平太氏等と共に向陽社を組織する。平岡氏は筑豊の有力な炭鉱業者の一人であり、旧福岡藩士でもあり、安川氏とは旧藩時代からの刎頸の友であったようです。両氏は、ともに旧福岡藩士で炭鉱経営で財を成し、玄洋社という政治結社を通じ思想的にも強い関心を示し、活動を実践した人物でありました。さて二人が鳥居を奉納した明治33年(1900)という年の日本は、明治27年に日清戦争が起こり、勝利するも列強諸国の干渉により国民の不満が残る戦争となりました。この後明治37年の日露戦争へと向かっていきました。明治33年5月10日に嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)と九条節子(さだこ)(後の貞明皇后)が結婚するという国家的な慶事の時期に併せて、国の安泰を祈る意味を込めて額を掲げたものと考えられる。