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   志賀島を往く

 1587年(天正15)3月豊臣秀吉公による島津氏平定に際し、出陣から海路にて博多まで下向した幽斎公(玄旨)が道すがら見聞したことを書き記した陣中日記、紀行文『九州道の記』に、5月24日夕方頃、細川幽斎公は志賀島に到着し、志賀海神社の宮司坊に宿泊します。同社の由来を聞いたり,縁起を見たとあり、その時感じたことを詠みました。また宮司坊から海の中道を眺め、天橋立と思い比べて詠みました。ゆえに紀行文には「これ両首を書きて奉納して」とあります。細川幽斎公が詠んだ二首の和歌懐紙が神社に所蔵されています。
   三笠山 さしてやかよふ しかの鴨 かみのちかひの へたてなけれは  玄旨
   名にしほふ たつの都の 跡とめて なみをわけゆく うみの中道   玄旨
   ★[玄旨]は細川幽斎の剃髪後の号
法体(ほったい)になった幽斎公は名所旧跡に親しみ、俳諧即興の和歌・連歌を詠み、風流韻事を楽しむ雰囲気が記されています。志賀島とそれに連なる海の中道は領国である丹後国にある天橋立てを想い起させる景勝地として印象に残ったようです。