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   幕末福岡の台場

 1854年(安政元)、福岡藩は海岸枢要の地、およそ10ヵ所に台場を建設する許可を幕府に願い出ました。(『見聞略記』)。1860年(万延元)には志賀島・能古島の台場が完成し、翌年には、志賀島・能古島・荒戸山に大砲が設置されました。それによると、玄海灘より異国船が侵入してきた場合、玄界島遠見番より大砲を用いて空砲を2発放ち志賀島、西戸崎、波奈(はな)へと順々に大砲の音で受け継ぎ、福岡城内より大砲・鐘・太鼓で急を知らせ、福岡・博多の寺院が一斉に鐘を撞き、これを聞いた武士は受け持ちの台場へ走り、町人は所定の農村地域へと避難することになっていました。このようにして、那珂川河口付近の洲崎砲台に石火矢(大砲)15挺、西公園下船溜りの波奈(はな)砲台に10挺設置され、特に、福岡城下に築造された台場のうち波奈・洲崎の台場は規模が大きなもので、福岡城防衛という役割を担っていました。波奈の台場は1800年(寛政12)から1802年(享和2)にかけて築造された。一方、洲崎の台場は1863年(文久3)に完成。