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   多々良潟埋め立て

 多々良潟は海岸沿いの荒地でしたが、農家にとって必要なのは農地の確保であり、安定的な用水の供給です。まず六田地区(旧小字名:米田屋、井桶田、景塚、浜田、東林寺、塩浜)は数多くの開拓、堰提の築造、溜池の構築を行い、風水害、塩害を防止するために、長い堤防がわずか五日間で築かれました。現在も宇美川土手に残る王丸彦四郎翁の供養塔です。塔碑文には、六田の浜辺は広い塩気のある湿地で、大風や高潮の被害がひんぱんに起こっていました。そこで彦四郎翁は対策を考え、その塩気のある農地に石垣の長い堤防を築いて、土地を造成しようと、藩庁に願い出て、許可をもらいました。工事は藩から柳瀬与兵衛氏を総指揮として、三名が奉行として任命され、現場では斉藤忠兵衛以下五名が工事の指示を出したとあります。人夫には粕谷、那珂、席田三郡の六万八千人を動員、1704年(宝永元)の7月21日に着手し、同25日に堤防を築き終えました。わずか五日間の突貫でした。干潟は35町9反4畝余の六田の美田が開かれました。