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   博多べい

 戦乱で焼け野原になった博多は1587年(天正15)、「太閤町割れ」でよみがえった。先頭に立ったのは博多商人たち、豪商・嶋井宗室の屋敷跡に残る土塀が復興の象徴として焼けた瓦や石が積まれた塀が語る。塀は江戸時代には「博多練塀」と称され、地誌『石城志』は宗室と同時期の豪商・神屋宗湛が考案したとする。宗湛氏は博多復興で双璧をなす存在だった。宗室氏は旧下東町(現、博多区中呉服町)一帯で活躍。復興に尽力したほうびに、旧浜口町に表口13間半、奥行き30間の宅地が与えられた。焼け跡から拾い集めた瓦や石を使い、粘土で固めて土塀にした。仲間の宗湛のアイデアを生かした。まさに取り壊しの危機に、落合栄吉氏らが保存運動に立ち上がった。1か月後、櫛田神社へ移転・復元されることが決まった。嶋井家は塀を神社に寄贈し、1970年(昭和45)に完工。「博多べい」と呼ばれた。完成記念誌で落合氏は焦土の痕跡を残す塀について、「根性の祈念碑」と記した。