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   立花城の争奪攻防

   戦国時代、立花山山頂にあった立花城は博多進出の軍事的拠点として大内―大友・大友―毛利の熾烈な争奪戦の場となった。大内氏の後継者となった毛利元就(もとなり)の豊前・筑前への侵攻を阻止しようとする豊後の大友義鎮(よししげ)(宗麟)との間に攻防が始まった。宗麟は毛利氏と不可侵の約束交わしたが、元就がこれを破って北九州に鉾先を向けた。元就は秋月・筑紫・原田・宗像・麻生・長野らの北九州の国人たちや、宗麟に不満をもつ大友一族の高橋鑑種(あきたね)、立花鑑載(あきとし)らを味方に付けて北九州支配に乗り出す。一方、宗麟の将戸次鑑連(あきつら)・吉弘鑑理(あきまさ)らの率いる大友軍は毛利派の諸城を攻めた。中でも要害立花城戸次軍の猛攻をうけ落城、立花城には大友の将兵が入った。
   元禄12年(1569)4月、吉川元春・小早川隆景らの率いる毛利の大軍は城を占拠した。立花城奪回を図る大友軍博多・箱崎付近に布陣して、毛利軍と半年間にわたって対戦したが、勝敗つかず膠着(こうちゃく)状態となった。