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   夢野久作の場所

 大正4年(1925)、大正7年(1918)、夢野久作は鎌田クラと結婚。翌年には長男龍丸が生まれた。大正9年には、九州日報に入社して記者になっている。九州日報はもともと玄洋社の機関紙「福陵新報」として、父茂丸は頭山満ら玄洋社の幹部とは同志的関係にあり、新聞の発行に資金をだしていたようで、明治42年(1909)から44年にかけ社主に就任している。なお九州日報はのちに太平洋戦争が始まった後の昭和17年(1942)、政府の地方新聞統合政策によって、福岡日日新聞と合併して西日本新聞となる。久作は九州日報では家庭部と社会部に所属して、なかなか精力的に活動をしたようです。家庭部の時代には、家庭欄に盛んに童話を執筆している。大正10年(1921)に二男鐵児、15年には三男参緑が誕生している。大正15年(昭和元年)の日記によると、テニスをし、能を舞い、博多の街でコーヒーを飲み、トランプや碁を打ちと幅広い人々との交遊を楽しんでいる。