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   「玄洋社」結成

 萩の乱で捕らえられ「西南戦争」に参加できなかった頭山満翁は西南戦争終結後の明治11年(1878)高知へと向かい、立志社を結成して自由民権運動を展開していた板垣退助公のもとに身を寄せた。板垣の活動に感銘を受けた頭山は、福岡に帰って平岡浩太郎、箱田六輔らと「向陽社(こうようしゃ)」を結成し、自由民権運動に乗り出す。向陽社が活動の主眼としたのは、国会の開設と条約の改正を政府に求めることであった。国会開設請願運動は明治7年に民選議院の開設を求め「民選議院設立建白書」を提出したことに始まる。一方の条約改正運動は、幕末の安政年間に列強諸国と結ばれた不平等条約の改正を目指すもので、向陽社は初代社長の箱田氏のもと、立志社と並び両運動をリードする。明治14年(1881)2月、向陽社は「玄洋社」へと改組する。さらに同年10月12日に国会開設の勅論が発せられ明治23年(1890)の国会開設が決まる。