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   中洲の開拓

 福岡藩精錬所ができる前の中洲ですが、福岡藩が福岡と博多を結ぶために慶長年間に那珂川のデルタ地帯を整備して中島町を造りました。黒田氏入国の際にあとを追って入った商人達が居住しました。当時町の南側一帯は畑地か湿地であり、唐物問屋の京屋、紙屋、醤油の煙草屋、薬の吉野屋などが軒を連ねています。『筑前名所図絵』を描いた奥村玉蘭は煙草屋の三代目でした。1834年(天保5)、藩の政策で町の北側の埋築地を「浜新地」として取り立て、茶屋や芝居小屋を建てて歓楽地帯を造り、芝居・相撲・富くじを興行するが、わずか2年で中止となる。那珂川と博多川の間の中洲のうち早く発達した中島町と区別して、南を東中洲と称します。幕末になり中洲河原でも歌舞伎芝居や相撲が興行され、中島町の北を「浜新地」とよんだのに対し、その南を「岡新地」、さらに中洲の南端を「南新地」という。精錬所跡に1877年(明治10)には博多川畔に福岡病院が開設しました。