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   『筑前国続風土記附録』

 青柳種信は、明和3年(1766)福岡藩足軽鉄砲組の次男として福岡城下に生れた。江戸藩邸詰の際には、国学の大家として有名であった本居宣長の弟子でもあった。福岡では、藩士として島御番や普請方、浦方に勤めるかたわら、『筑前国続風土記附録』の助録を命じられ、次第に国学者としての頭角をあらわしていった。文化9年(1812)には測量のため筑前を訪れた伊能忠敬の案内役を勤め、忠敬から「貴殿程国学に達し候人に逢不申」とも評価されている。文化11年(1814)種信は、浦方より御右筆記録方に転じ『筑前国続風土記附録』の再吟味を命じられた。これが後の『筑前国続風土記拾遺』である。『拾遺』は、筑前国内の地理・歴史・古跡などを郡村ごとに記した地誌で、9年以上にも及ぶ調査を終えた文政12年(1829)種信は藩から地誌編纂の功労を賞され加増を受けるまでになった。さらに61年ぶり文化元年の「香椎宮勅祭」の昔の記録を調査命じられている。