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   香椎廟から香椎宮へ

 「廟」とは祖霊の御霊屋(みたまや)といった意味。香椎廟は天子の宗廟で、廟号を以て一般の神社とは異なる性格づけでした。「日本四所宗廟」といい、貝原益軒の『筑前国続風土記』には「四所の宗廟とは東に伊勢、西に香椎、南に石清水、北に気比」と記す。香椎廟が「廟号」を公称としたのは、創建以来、8・9・10世紀の約300年間で、11世紀以降は、「宮号」を公称とするようになる。この後、平安時代後期から鎌倉時代前期200年間には、香椎宮を公称とするようになった。(『香椎宮史』)しかし、伝統的な宣命や祝詞の類は後世まで殆ど「廟」が使用されていました。貞観6年(864)、香椎廟司の任限が6年と定められており。なお貞観16年(874)の大宰府解状に「香椎廟宮」という名称、この「廟宮」というのは、廟より宮への移行過程にかかわる呼称とも考えられる。香椎廟の祠官等が、他社と同じ宮号の称を持ち、同様の処遇を志向した。