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   市名騒ぎ 福岡と博多

 福岡市が生まれたのは明治22年(1889)4月1日。同21年公布の「市制及町村制」で決まった直後、福陵新報に新市名についての論説が掲載された。福陵新報の創刊は明治2年(1887)8月11日で論説は「市制を実施するについて、第一に選ぶべきは市名なり。福岡市と言わんよりは、むしろ博多市と呼ぶほう、はなはだ穏当なり。」等記す。ところが、福陵は論旨を変えた。福岡、博多が合体して「福岡市」となったほうがいいという説である。まもなく博多市論も下火になり明治22年4月、新市名は「区制時代のまま福岡」でと福岡市が発足する。翌年明治23年1月31日に始まった市議会の席上、藍園市次郎氏が「市名変更の議」を建議した。藍園氏は博多の有力者・太田清蔵氏、堺宗五郎氏らと図って福岡市を博多市に改称するよう運動した。市議会の色分けは博多部選出17名に対し福岡部13名でこのままでは博多市に決まってしまう。各部に闘争があり最終市議会にて決あり総員27名で賛成者と反対者半々で議長が入り博多側が負ける。


旧福岡市役所庁舎