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   天神町の急カーブ

  黒田長政公は福岡城を築いて城下町を整備する。当時の戦略上の死角(攻めてきた敵が真っすぐに進めないように交差点をT字型に区画)が今もいくつか残っているが、その典型的な例が天神町(現・天神2丁目)から大名町に入る場所で、ここを南北に通る町筋を萬町(よろずまち)といったので“萬町の曲がり角”と呼ばれていた。明治末年、福岡に市内電車が走ることになり、「天神町から大名町まで真っすぐに線路を通す」ということになった。そのためには大名町の「赤れんが」の聖堂を撤去しなければならない。この聖堂は明治28年(1895)に建設されたもので福岡市最初のれんが造りの建物であった。聖堂の撤去を要求された司祭は東京の司教総代神父に訴える。この一大事の善処を親友の原敬氏に相談した。西園寺内閣の内務大臣であった原氏は早速、福岡県知事に「教会の土地を削ってはならぬ」と指示する。一件落着したが電車は萬町の急カーブで難渋することになる。こうして遺構は残された。