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   犬鳴御別館

  安政元年(1854)、加藤司書は藩主長溥公に製鉄事業を任され、深山幽谷であり木炭の生産地であった犬鳴峠に近い犬鳴村(現宮若市犬鳴)を選び、犬鳴日原鉄山(犬鳴製鉄所)を開業させる。これは砂鉄を犬鳴谷に運んだ方が効率良いとされたためでした。慶応元年(1865)、有事の際に福岡藩主が避難する場所として犬鳴御別館を建てさせた。建設途上で「犬鳴御別館事件」が起きました。佐幕派が御別館の目的を藩主に進言し、「乙丑の獄」が発生しました。御別館は中止することなく、今後の外国との脅威に備えるために建設を継続しました。一年ほどで完成しましたが「犬鳴御別館」と言う名を「犬鳴御茶屋」という殿様の休息所という形で完成しました。明治2年(1869)に藩主長知公が立ち寄ったという記録はありますが、その後荒廃が進み、明治17年(1884)の大風雨により倒壊し、終焉している。現在、犬鳴ダムのダム湖には「司書の湖」という愛称が付けられている。