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   女傑・高場乱

  女傑・高場乱(たかばおさむ)は天保2年(1831)、博多瓦町の眼科医の末子として生まれた。実家の高場家は江戸時代初期から代々続いてきた眼科医で、福岡藩の藩医を務めた家柄である。当時、父は娘に家業を継がせるべく、乱を男として育てた。幼い頃から漢文や剣術、礼儀作法などの英才教育を受け、外出時には男装していたという。実は16才の時に結婚しているがすぐに離婚したという。その後は本格的に学問を究め、20歳で亀井塾に入門。亀井暘洲(ようしゅう)(亀井南冥の孫)に師事して「亀井塾の四天王」の一人に数えられるほど学名を高めた。また、亀井塾に男装の女傑として知られる詩人・原采蘋(はらさいひん)がいたが、亀井家の娘・亀井少琹(しょうきん)を加えた三人の女性門下生は「亀井の三女傑」と称されたという。さて、乱は、明治6年(1873)に「興志(こうし)塾」という私塾を開いた。そこには頭山満をはじめとする玄洋社の中心メンバーたちの姿があった。