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   新天町の興り

  明治34年(1901)、田中諭吉氏は博多・川端の焼物屋根の長男として生まれた。独学で書画を学び、福岡日日新聞社(のちの西日本新聞社)に入社してからは、次々と面白い企画を思いつき、実行していきました。手がけた主な企画は、「新天町商店街」や太宰府の「曲水の宴」、博多祇園山笠の「集団山見せ」、「永代奉納番外飾り山笠」などです。奇抜なアイデアを次々に想いつき、稀代のアイデア・マンでした。 さて、終戦当時、諭吉氏のいた西日本新聞社内の「戦後対策本部」は戦後の社内外の企画立案をすることになりました。当時市内大部分の焼け跡は露店、闇市場ができていました。現在の西鉄福岡駅の西側に福岡県と福岡市有の旧女専焼け跡の数千坪の空き地があり、整地して商店街をつくることによって、また合併前の九州日報社跡ビルを西日本会館と名付け、企画をたてました。この商店街は初め「西日本公正商店街」と名付けられ、後に現在の「新天町」と改名しました。