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   宗勝寺由来

  昌光山(しょうこうざん)と号する高節山麓にある曹洞宗の寺である。大友陣・立花道雪公と匹敵する毛利傘下の武将に、小早川隆景公の重臣・浦兵部宗勝(うらひょうぶむねかつ)がいた。永禄12年(1569)の立花城攻略、それに続く多々良川と博多に及ぶ戦いで五ヶ月を戦った。同じ頃には多くの武将も各地で戦いを繰り返した。九州戦乱でも毛利軍の一斉撤退により浦兵部宗勝氏は立花城を援護し、主命によって城を開城して帰国した。彼は安芸で、小早川水軍を率いて、納島・来島・因島の三島の村上水軍を味方につけ、軍政に手腕を発揮したという。小早川の筑前入国後は、名島城築城に自らが工夫を凝らし、二万八千石の立花城代になっている。名島城築城後は、その三の丸に入ったとういう。文禄元年に66歳で没した。浦兵部宗勝氏の妻は慣れぬ異国の地で夫を支え続け、その労苦に何よりも感謝した。彼は妻の没後にその菩提寺として宗勝寺を建立した。舜庵和尚が開山した寺である。現在の本堂は約200年前に再建されたものである。本堂手前の山道を案内に従って、登っていけば、竹林の中に宗勝氏とその妻の墓が、5人の重臣墓とともにある。