171<< 170 >>169

   多々良干潟の開発

  『福岡県地理全誌』の「多田羅村」の項に「村の西の遠干潟を云」とあるよいに、村の西を流れる多々良川には干潟があったことがわかります。 天正15年(1587)に細川幽斎(ゆうさい)が記した『九州道の記』にも、「舟をはるかなるひかたのさきへ廻して、多々羅はまにかちにて行く」と見えます。18世紀初頭、多々良潟の開発案が糟屋郡多々良村に住む王丸彦四郎から福岡藩に提出されました。この案は藩に採用されたのち、幕府へ提出され、許可が下りると、宝永元年(1704)に工事が開始されました(『黒田家譜』)。工事に際しては、藩から柳瀬与兵衛を総指揮として、さらに三名が奉行として任命され、現場では斉藤忠兵衛以下五名が工事の指示を出したとあります(『黒田家譜』)。人夫には糟屋・那珂・席田(むしろだ)三郡から約七万人が動員され、工期はたったの五日間だったといいます(『王丸彦四郎翁碑』)。 多々良潟に完成した潮留めの土手は、長さ994歩(約1,807メートル)、幅8歩(約15メートル)に及び、土手が完成したことで、干潟は35町9反4畝余(約35,6ヘクタール)の田地に変わりました。この田地は、工事に際して出資をした博多商人の屋号から「ムツタ(六田)」と呼ばれました(『筑前国風土記附録』)。


江戸時代の古地図        王丸彦四郎翁記念碑