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   能古島その2

  能古島には南北に区切る、東西約2キロメートルの石垣がありました。島に棲む獣から作物を守る「鹿垣(ししがき・しかがき)」です。その先端は、鹿が海岸をつたって入り込まないよう海まで延びていました。今でも島の中央部でその痕跡を見ることができます。 鹿垣のはじまりは江戸時代です。藩主の猟場が島に設けられると、島民といえども勝手に猟をすることができなくなりました。すると猪や鹿が増えて農作物の被害が大きくなります。そこで長い石垣を築き、里に下りてこないように防いだのです。完成したのは天保7年(1836)でした。藩主の猟場であることから、能古島は狩猟の島として著名でした。寛政10年(1798)には秋月藩主の鹿狩りが行われ、180頭近い鹿を狩ったと記録に残されています。幕末になると外国人たちが狩猟に訪れるようにもなりました。廃藩置県によって藩の狩猟場は県庁が管理していました。この時の県令・有栖川宮熾仁親王は直後の10月に県庁の役人を連れて、狩猟のために能古島を訪れます。成果は26頭であったと記録に残っています。しかし、この後、能古島の鹿は数年間で急速にいなくなってしまいました。大正年間になると屋久島から鹿が移入されました。