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   崇福寺

  福岡城保存に尽くした黒田家の菩提寺。臨済宗の崇福寺の住職であった渡辺玄外(げんがい)は、黒田家時代の福岡城が失われてゆくことを嘆く。任治元年(1240)、太宰府の横岳に創建された崇福寺は、戦国時代の兵火で焼けたが、黒田長政公が福岡城を築くにあたり、現在地に再建して、寺領350石を寄せ、京都大徳寺の春屋良把師を招いて中興開山とした。以後、黒田家の菩提所となったから、初代長政公やその父孝高公(如水)はじめ四代綱政公、六代継高公(つぐたか)、七代治之公(はるゆき)、九代斉隆公(なりたか)らの墓所がある。さだに、玄外師は、福岡市長佐藤平太郎氏の名を借り、明治41年2月、に申請した。その申請書で福岡城三の丸の塩見櫓と花見櫓を下付してほしいと願い出が、福岡城を保存することは「歴史上の参考物」として市民の懐古趣味を満足させ、観光的価値もあるといった旨を述べている。この申請が認められて明治41年4月、崇福寺にこれら櫓が移築された。ほかに、頭山満氏・来島恒喜氏・高場乱氏などが眠る玄洋社墓地がある。