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   筑豊炭田

  戦争に明け暮れた日本近代化の中で、福岡県は最大の「石炭供給県」の役割を果たします。明治の終わりころには、全国の出炭量の三分の二を産出していた。官営から三井という大資本に払い下げられた三池炭鉱と対照的なのが「筑豊」の炭鉱です。筑豊とは、「筑前」と「豊前」という旧国名の頭文字から名付けられたものです。石炭資源を背景として明治以降、新しく生まれた地域区分で、飯塚市・直方市・田川市を中心とします。筑豊の炭鉱は「自由掘り」であり、多数の中小炭鉱主が生まれることになった。それが、小鉱区の乱立、乱掘といった弊害を生じてしまい。政府は明治21年から翌22年にかけて、選定抗区制を実施する。細分化されていた炭田の鉱区を、20万坪から250万坪の大鉱区に統合し、集中化をかかりました。こうして、麻生・貝島・安川( いわゆる筑豊御三家)をはじめとする、地元資本が鉱区の獲得、拡大を進めたが、明治20年代になると、三菱・古河・住友・三井などの中央資本の筑豊進出が相次ぐ。