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   香椎宮 四党

  本宮は往古「廟」といって、伊勢神宮と共に他の神社とは異なった特別待遇を受けた。従って、神官も古くは「廟司」といって天皇から置かれた職であり、神功皇后治政中に特に功勲があった朝臣の後裔を選んで京師から差下された。即ち当廟祠官の長を四党(又は四頭)といって大膳紀宿祢(おおかしわできほすくね)、膳大伴宿祢(かしわでおおとものすくね)、大中臣朝臣(おおなかとみのあそん)、清原真人(きよはらのまひと)であり、このほかに武内宿祢の子羽田矢代宿祢(はたのやしろのすくね)及び蘇我石川宿祢を祖とする本郷氏と石川氏等があって本宮が盛んな時は社人数百人あったといわれる。廟司(後の宮司という)はこの四党の中から六年交代で任せられた。大宮司の任期が竟人を前(サキ)大宮司と言い、まだ任ぜられる人を権宮司という。天正14年(1586)7月島津義久公の香椎宮を炎上させ、以後、大宮司職は大膳記宿祢武内家だけが任ずることになる。


三苫家代々の住居跡と伝えられる「森の屋敷」(東区三苫7丁目)