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   長崎警備

  鎖国体制のもと、日本随一の貿易窓口であった長崎には、毎年オランダと中国の貿易船が来航して、貿易活動が行われていた。貿易港長崎の警備を勤め、港の治安を守っていたのが、福岡黒田藩と佐賀鍋島藩であった。きっかけは、幕府がキリスト教の禁止と貿易統制のために、寛永16年(1639)に発したポルトガル船の来航禁止令、その報復に備えるために寛永18年、福岡藩に長崎警備が命じられ、翌年には佐賀藩にも命が下り、幕末の開国期にいたるまで、両藩が一年交代で長崎の警備を勤めた。警備は、長崎湾口の西泊と戸町の番所を拠点に、藩士や人夫など、1000人ほどの人員と番船を配して敵船の進入に備えるもので、藩主自らも当番の交代時や外国船の渡来・出航期には長崎に赴いた。一方で、両藩は、長崎に出先機関を設け、藩主以下の多くの人員が長崎に赴き、貿易品をはじめ海外の文化・学問・技術・情報をいち早く取り入れることができる立場にあった。


長崎警固之図