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   旧町名 倉所町と対馬小路

  倉所(くらしょ)町は、江戸期に秋月藩の年貢米の収納蔵があったので倉所町の町名がつきました。廃藩置県後、一度は妙楽寺町に吸収されましたが、1893年(明治30)、秋月藩士が数多く住んでいたことから、妙楽寺町から分離されました。その経緯を記した石碑が「秋四郎稲荷神社」の社殿裏に立っています。 一方、対馬小路(つましょうじ)は、対馬藩の蔵屋敷があったため、「対馬小路」の名前がついた。「上」、「中」、「下」の3町がありました。対馬藩蔵屋敷があったのは、博多湾側の下対馬小路。『石城誌』によると、豊臣秀吉公に対馬領主・宗義智公が薩摩にあった飛び地との交換を願い出て許された土地を与えられました。尚、日本の近代演劇のとびらを開いた新派俳優・川上音二郎氏は中対馬小路の生れです。さらに、上対馬小路南側は旅館や製油所などがあったが、戦災復興による道路拡福で昭和通りとなった。