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   西国随一の賢者

  毛利元就の三男として生まれ、毛利宗家を補佐することを父より義務付けられた小早川隆景公。彼は生涯毛利家を守り抜き、自らの功績を誇らず、最後は静かに歴史の表舞台より身を退いた。秀吉公から西国一の知恵者と評され、「西国と九州の統治は隆景公に任せれば事足りる。」とまで信頼された男である。 天正15年(1587)九州統一を目指す薩摩の島津義久を掘服させ、西国は完全に豊臣氏の支配下に入った。さらに毛利家では不幸が続いた。毛利氏の至宝・吉川元春公が没したのだ。元春公は弟隆景・甥輝元からも説得され、秀吉公からも懇請される。 小早川隆景公は本領三原6万6千石に加え、筑前・筑後・肥前1郡を領し37万13000石となった。隆景公は立花宗茂公が居城としていた立花山城を居城とした。隆景公は立花城を一部改修したが、山城である新しい城下町造成するうえで、困難であるという事と、海将として有名を馳せた隆景公としては、立花城の支城で海に面していた名島城を改修し、居城とした。