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   和白塩田跡

  福岡藩は特に製塩業を重視して、奨励し援助を行いました。元禄13年(1700)に塩の専売を実施し、勝浦、姪浜、今宿、松崎にその奉行を置いた。元禄16年、大野忠右衛門を奉行に据え、奈多から和白の30ヘクタールの塩田を藩費で設け、2年後には津屋崎塩田も拡張した。嘉永5年(1852)に大風の高潮で塩田の堤防が決壊し、修復工事を兼ね塩田の拡張が計画された。工事責任者は松本平内氏、徳田文右衛門氏ら二人が築堤新開の役所役人として任命された。博多古小路町の大山忠平氏、管内町の菊野屋貞次氏、浜小路町の鳥飼屋七蔵氏の三人が出資者になり、嘉永6年から潮止工事が開始された。元禄の塩田拓きは藩費の工事だったが、決壊した堤防の拡張工事は博多商人の出資で行われ、近郊の村々や長門、肥前、肥後からも人夫を募って総勢八百人という多数の作業人が工事に従事した。工事は六年を要し安政5年(1858)に完成した。現在の和白潟の塩浜海岸2.5キロに及ぶ広大な地が塩田跡である。現在は周辺畑地になっている。