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   糟屋郡とは

  糟屋の名は、京都妙心寺の国宝梵鐘に銘があります。戊戌(つちのえいぬ)年、西暦698年に、「春米連廣国鋳鐘(つきしねのむらじひろくに)」という糟屋評(こおり)の長官がこの鐘を鋳造させたことが記されている。『筑前国風土記』「糟屋」という文字で現れる、「評」と書いて「こおり」と読み、後の「郡」のことです。中央集権化が進み国の下に郡を置く国郡制が定められました。当初「評」字を用いたのを、朝鮮と共通するのを避けて、大宝律令(701年)で「郡」に替えたのです。10世紀当時糟屋郡には、9郷があり(『和名抄』)、やがて郡卿制の再編により糟屋郡は糟屋東郷(かすやとうごう)と糟屋西郷(かすやさいごう)に分割された。中世の郡域は博多湾沿岸の箱崎・多々良・香椎・和白・志賀島などの現東区の大部分と現古賀市、現糟屋郡全域に相当する。慶長5年(1600)、黒田長政公が入部し、福岡城を築き、長政公は糟屋郡を大郡として、伊野(現久山町)と香椎の山(犬鳴山と立花山)の南で二つに分け、南を表糟屋郡、北を裏糟屋郡と称する。