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   博多の町割り

  博多復興の町割りは全て「七」を基準としている。町名に仏教に関するものが多いことと、「七」という数字が仏教に深い因縁を持つ数字である。 玄蘇景徹、聖福寺109代の僧。玄蘇僧は復興を願い出た神屋宗湛の夫人の兄であり、学者でもあり、商人でもあり、中国語も堪能で、明の国王から最高の僧位を受けた、最高の幅広い教養人であった。博多が戦火で焼けたとき、宗湛氏と共に唐津に疎開しているが、博多復興を熱望していた宗湛氏は玄蘇僧に依頼して別に作らせていた。玄蘇僧は七七「四十九願」の阿弥の本願を込めた四水、四応、四神相応の計画を立て、博多の町を七条の袈裟になぞらえる、一山の七堂伽藍(しちどうがらん)にたとえたという。七小路、七番、七厨子、七堂、七口、七観音があり、更にこれらの町の集合体として計七つの「流」をつくりました。さらに町の集合体として南北に四、東西に三、計七つの「流」をつくった。