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   渡辺通り

  1900年(明治33)、福岡市でも電気鉄道建設を目指す動きが始まり、当時博多電灯という福岡市の電灯会社で取締役を務めていた太田清蔵氏らが立案した計画で、日露戦争後になると、企業ブームを背景に、東京の福澤桃介氏を中心とするグループが市の後援を得て会社設立にこぎつけた。これが1909年(明治42)に設立された福博電気軌道である。社長は福澤桃介氏、専務は松永安左エ門氏で、取締役には福岡の実業家、太田清蔵氏、渡辺綱三郎(渡辺与八郎の弟)らが名を連ねた。翌1910年3月31日、資本金150万円で博多電気軌道設立された。発起人には太田清蔵氏・渡辺与八郎氏・麻生太吉氏ら地元実業家や名をつらねた。渡辺与八郎氏の尽力で与八郎氏の懇願により社長を引き受けていた平岡良介(平岡浩太郎長男)氏は開業直前にあたる9月の重役会議で、「天神町から新柳町の間は、渡辺さんの労苦と犠牲を祈念する意味において、ぜひ渡辺通りかまた渡辺町としたい」という旨の建議を提出しました。しかし与八郎氏はこれを固辞し続けました。名は彼の死後に名づけたもものです。