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   大賀家

  大賀宗九は博多豪商三傑の一人に数えられる。黒田家が中津から福岡に来るとき、長政公を頼って博多入りし、呉服町に住み、秀吉公愛顧の博多商人を尻目に商人筆頭格に登りつめた豪商である、 大賀氏はもとは大神氏といい、大神朝臣良臣(よしおみ)を先祖とする豊後の豪族。大友氏が豊後に入国した後はその下に入り、佐伯地方を領し「栂牟礼(つがむれ)城主」となり、佐伯姓を名乗る。文禄時代、大友家が改易で中津に移り商人となって姓を大神に戻した。大神甚四郎信好氏は、後に大賀姓を名乗り剃髪して宗九と号するようになった。以来、中津藩の黒田如水や長政父子と親密になり、長政公の藩御用を受けるようになる。福岡入りした大賀家は長崎にも支店を持ち、福岡城築城で多額の献金をして城内にしばしば招かれた。長政公は元和7年(1621)、宗九氏の長年の功に対し粕屋郡仲原村・箱崎村のうち、164石余の知行を与えようとしたが、これを辞退した。宗九は70歳で他界する。子供三人は「道句・道善・宗伯」の名で、順に上大賀・中大賀・下大賀と呼ばれ後世まで軒を並べて栄えた。