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   分国糸割符

  黒田藩が町人に功労を与える格式基準は、大賀家の貢献度との対比が基準になった。天保3年(1832)頃は、「永大(両大賀)」、「大賀次」、「福岡年行司」、「博多年行司」、「年行司次」、「年行司格」、「御用聞町人格」の七段階があった。いわば藩による町人・商人親衛隊の格付けである。博多商人筆頭格の大賀家の実力を示す例に、「分国糸割符」における藩との関係がある。寛永10年(1633)に始まった輸入生糸の利権で、原価で購入する権利を幕府が与えたのは、幕府直轄の五か所、特に長崎・江戸・大坂・堺・京都の商人であった。他はこの五か所の商人からマージンを払って手に入れるのが普通で、博多商人はこれに強い不満を持っていた。その対応として幕府がとった政策が「分国糸割符」制度である。分国とは博多・久留米・柳川・佐賀・小倉・対馬の諸藩を指し、この諸藩には輸入生糸を原価で購入する権利を認め、この分国割り当ての、約半分を博多が占めたといいます。