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   袖の湊

  『筑前国続風土記』のなかで「袖の湊」の位置を「入海(中海)」とし、袖の形から名付けられたと推定しています。益軒氏はそもそも「袖の湊」は、和歌の世界の言葉であり、袖の形から生まれたものではありませんでした。 文政4年(1821)に成立した奥村玉蘭『筑前名所図会』では「袖の湊 博多別名にして、いにしへより古歌に多くよめり。今はあせて陸となり、博多の町建てり、むかしは唐船の泊せし所にて、その形袖のごとくなりし故、名とす」と記し、「袖の湊」は博多の別名であったと言い切っています。それに対して、天保14年の『太宰管内志』では、著作者伊藤常足氏は「袖ノ湊と云も、古歌には袖に湊のさわぐなどありて、恋ノ歌よむ時のとりなしにて、思川、涙川、涙ノ灘などの如し、実の地名にあらず」と書いています。『伊勢物語』に、「袖の湊」は歌の世界のことであり、実の地名にあらず、と述べているのです。これが妥当な評価ではないでしょうか。