106<< 105 >>104

   神屋宗湛の日記

 博多の豪商、神屋宗湛の茶会の記録『宗湛茶湯日記』を素材に、宗湛氏は天文22年(1553)に博多を代表する大町人の家に生まれた。神屋氏は室町末期から博多を拠点に海外貿易で財をなしてきた豪家で、祖父は「厦門(アモイ)に神屋町という日本人町を持っていた」ほか、「二人の番頭を連れて中国奥地へ入り銀の精錬法を覚えて来て、石見の銀山を開発した」稀代の商人であった。天正10年(1582)6月、29歳の頃織田信長公に招かれて上洛し、信長公に本能寺に招かれ、信長公が宗湛氏に「掛軸や道具を見せてやる」と言われ、その夜、明智光秀の反乱、「本能寺の変」に遭う。すぐ動乱だとわかったので、床の間の掛け宿軸を取りはずし、南蛮寺に逃げて行った。信長公の下僕、弥助というアフリカ生れの黒人が道案内をしてくれた。本能寺から南蛮寺は僅か二町である。宗湛氏が本能寺から持ち出した掛軸は信長公秘蔵の名品牧谿(もっけい)筆「遠浦帰帆」の図であった。