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   貝原益軒の銅像

  金龍寺境内には博学の儒学者「貝原益軒」が机に向かっている姿の銅像がある。ここには、益軒及び益軒の妻東軒の墓もある。生涯は江戸前期から中期の儒学者、博物学者。寛永7年(1630)、福岡藩祐筆の子として城内でうまれる。名は篤信(あつのぶ)、字(あざな)は子誠(しせい)、通称は損軒と号し、晩年に益軒と改める。初め福岡藩主2代目黒田忠之に仕え、その怒りに触れて浪人となり医学修行に励んだ。数年後に3代目光之(みつゆき)に仕え得て、約10年間京都に藩費遊学した。帰藩後、君命で『黒田家譜』をついで『筑前国続風土記』(1703年成立)を晩年までかかって完成した。その間、朝鮮通信使の対応を行う。正徳4年(1714)に85歳で生涯を閉じるが、記した諸作は百数十部におよび、儒学・神道・道徳・本草学・医学・地理・歴史・紀行など、ジャンルは多岐にわたる。さらに和文の読みやすい文体を用いるなどの意を配した。


貝原益軒の銅像