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   立花・宗像両家の和睦

  大友氏の筑前制圧後、立花・宗像両家はそれまでの敵対関係に終止符を打ち、平和を誓い合って和睦した。この時の大友側の条件は、 一、氏貞公は毛利氏と手切れして大友氏に従うとの誓紙を出すこと。 ニ、蔦が岳(つたがたけ)城を開城して差し出すこと。 三、近年知行の半分を預けること。 などであったが、大友側は西郷党の旗頭である河津隆家の誅伐を要求してきた。河津ら西郷党は立花と隣接して宗像家の最前線としてつねに立花家と戦ってきた。だが理不尽な要求も力関係の上では従うほかなかった。元亀元年(1570)1月15日、氏貞公は隆家公を蔦が岳山麓の妙湛(みょうたん)寺で討たせた。河津隆家公の弟は、博多聖福寺第百九世住職となった景徹玄蘇(けいてつげんそ)であり、また、その妹は博多の豪商神屋宗湛氏の妻であった。この和睦にあたり、氏貞公の妹色姫は、立花道雪公のもとへ輿入れした。道雪公58歳、色姫25歳であった。彼女は山上の松尾岳の舘を与えられていたので「松尾殿」と呼ばれた。