23<< 22 >>21

   立花城と和白

  永禄10年(1567)9月、毛利軍に荷担した宗像氏貞(うじさだ)、許斐氏備(このみうじまさ)ら、大友に背き立花城を攻めんと和白に打ってでて、近辺に放火した。立花城主7代鑑載(あきとし)の部下、奴留湯(ぬるゆ)入道が城代となって、毛利勢を迎え撃って戦った。(和白の戦い)この時、奴留湯入道公が陣所としたところが、島見山といわれている。この時の戦火で上和白大神(おおみわ)神社も類焼したと伝わる。元亀2年(1571)立花城主9代鑑連(あきつら)(後の立花道雪)が大神神社の灯明田(神田)として2反8畝10歩(約2,800㎡)を寄進した。立花城の西の守護神として城主の崇敬の念が厚かった。類焼した神社の再建にも城主の助成があったと考えられる。9代鑑連(道雪)公の幕下で、戦功も多く忠勤に励んだ安河内三郎左衛門虎昌に下和白村を領として与えられ、元亀元年(1570)に移り住んだ。これは鑑連(道雪)公が新宮浜からの敵の侵入に備えたものと考えられる。