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   名島門に関わる話

  福岡城址、大濠公園へと抜ける途中に、名島門という櫓門がある。福岡城造営のために名島城を解体してその部材を再利用された。この時名島城の脇門名島門は黒田24騎の一人で、家老・林直利(掃部(かもん))に下げ渡され、林家の門として使用されたが、明治の中頃、長崎に移築されそうになり、玄洋社初代社長・平岡浩太郎に買い戻され、自宅の門として使用、戦後平岡浩(浩太郎の孫)氏により現在地に移された。
  歌人・野村望東尼、福岡藩士・浦野勝幸氏の三女として文化3年(1806)に生れる。この時代、武士の娘は少女時代に林家に行儀見習いとして入って来た少女の一人が浦野もとである。のちの野村望東尼である。13歳になったもと女はそれから2,3年間を林家で女子的教養、すなわち女としてのたしなみを身につけるために奉公した。少女時代のもと女は、幾たびかこの門を潜りながら林家に出入りしたことであろうか。