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   福岡藩に四つの藩校

  福岡藩には藩校が四つあった。四つもあるのは例外中の例外である。しかも「修猷館」と「甘棠館」は同時に設立された。
  藩主は九代黒田斉隆(なりたか)が7歳で、藩校設立は七代黒田治之(はるゆき)の遺言であった。甘棠館は天明4年2月1日、修猷館は同6日に開館した。唐人町にある甘棠館は西学問所、お城の堀端にある修猷館は東学問所と呼ばれた。館長はそれぞれ亀井南冥(なんめい)(徂徠学専攻)、竹田定良(さだよし)(朱子学)で修猷館館長は代々竹田家が就任した。一方甘棠館は寛政4年(1792)に南冥氏が館長を罷免され、同10年に建物が焼失して、そのまま廃校となった。理由に「寛政異学の禁」の影響もある。朱子学以外をいい、南冥とその子昭陽の亀門(きもん)学が該当する。
  第三の藩校が医学校・賛生館(さんせいかん)。賛生は「生命を助ける」の意。慶応3年(1867)落成した。
  藩主長溥公は文武兼学を目的に慶応4年、城内の御館に文武館(ぶんぶかん)を設けた。


県立修猷館高校の旧正門