雁ノ巣飛行場の痕跡を訪ねて
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戦前、福岡県粕屋郡和白村雁の巣(現 福岡市東区)に「福岡第一飛行場」と呼ばれる日本最大規模の民間国際空港がありました。 戦後はアメリカ軍に接収され「ブレディ飛行場」の名称で輸送部隊の飛行場として使用され、1977年(昭和52年)に返全面返還されました。 跡地は福岡市雁の巣レクリエーションセンターや福岡航空交通管制部などの施設が整備されました。 過去の飛行場の痕跡を残すものはほとんどなくなりましたが、建設の碑や水上機用の滑走台、滑走路の跡などがわずかに残っています。 ◇ 雁ノ巣飛行場 (福岡第一飛行場)←ウィキペディア参照 |
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福岡空港の延長線上に位置し上空は離着陸する航空機のルートとなっています。 | ||
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沿革
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1948年(昭和23年)に米軍が撮った航空写真![]() |
1956年(昭和31年)に米軍が撮った航空写真![]() |
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福岡第一飛行場 1936年(昭和11年)に滑走路(600×30m)1本、海岸に水上機の滑走台(80m)と格納庫2棟が整備され開港した。1939年(昭和14年)からは拡張工事が行われ、総面積は開港時の倍以上の135平方メートル、滑走路は800m級2本の交差型となった。太平洋戦争時には博多海軍航空隊が置かれるなど陸海軍共用となった。 |
ブレディ飛行場 戦後はアメリカ軍に接収され「Brady Air Base」の名称で1977年(昭和52年)に返還されるまで輸送部隊の飛行場として使用された。 |
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現在跡地は 雁の巣レクリエーションセンターと航空交通管制部になっています。 当時の飛行場の面影を残すものとしては、入り口近くに建っている石碑や水上飛行機用のスロープ跡 、滑走路の痕跡などがわずかに残っています。 |
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地図上(A)の箇所 | ||
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(A) 水上飛行機用のスロープ跡が残っている |
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地図上(B)の箇所 | ||
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(B) 2本の滑走路がクロスする位置でコンクリート上に筋状や〇形の模様が見られます。この模様は米軍が滑走路に敷いた穴あき鉄板の跡とのことです。
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穴あき鉄板について調べてみました |
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名称:Pierced Steel Planking Mat 重量:66ポンド=30kg 長さ:10フィート=305cm 幅 :15インチ=38cm ちなみに海外のネットで販売もされていました US $125.00 |
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雁の巣レクリエーションセンターの管理棟に昔の雁ノ巣飛行場の様子を説明したパネルが展示されています。その写真の中に穴あき鉄板を敷いている当時の写真がありました。 | ||
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地図でみる沿革 | ||
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![]() 開港を記念する絵はがき |
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福岡第一飛行場(建設時は民間飛行場) | ||
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雁の巣飛行場は太平洋戦争時は航空隊が置かれ、戦後はプレディー飛行場と名を変え米軍に接収された | ||
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現在は「雁の巣レクリエーションセンター」 | ||
格納庫 |
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1954年にマリリン・モンローがジョー・ディマジオとの新婚旅行中、福岡のブレディ米軍基地(雁ノ巣飛行場)に立ち寄った時の画像 ■ マリリン・モンロー Wikipedia参照 |
ネットで掲載されていた撤去前の倉庫、プレディ基地時はダンスホールとして使用されていたとのこと。左の写真のバックにこの倉庫らしき建物が写っていました。2002年(平成14年)に倉庫群は撤去されたそうです。 |
![]() 1956年(昭和31年)に米軍が撮った航空写真を拡大するとそれらしき倉庫を見つけました(○印) |
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福岡第一飛行場「建設の碑」と「球磨号遭難者慰霊碑」 旧飛行場の痕跡を残すものはほとんどなくなりましたが、旧正門の近くに建設の石碑と球磨号遭難者慰霊碑が建立されています。建設の石碑の表面には「海の中道 由緒も深き 雁ノ巣松」と詠われており、裏面には「白砂青松の丘 博多湾に面したる雁の古里を選び水陸兼用の国際飛行場を建設した」と当時建設に関わった人々の期待が刻まれています。 |
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■ 福岡第一飛行場「建設の碑」 [表書] ![]() [裏面] ![]() |
■ 球磨号遭難者慰霊碑 昭和14年(1939年)5月17日、ソウル経由北京に向かう大日本航空のロッキード双発プロペラ機(球磨号)が離陸に失敗する事故がありました。この事故による6名の犠牲者を追悼する慰霊碑です。 建設の碑の土台部分(右の写真)をよく見ると分離帯(出口・入口)であることが分かる、また写真右奥に鉄製の門扉が残っている。 下の写真は「ふる里のむかし和白2006」に掲載されている正面入口付近です。先に紹介した赤い屋根の格納庫が写っています。中ほどにゲートと思われる建屋も写っています。撮影の年代及び詳細は不明です。 |
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1956年(昭和31年)に米軍が撮った航空写真 分離帯の中ごろに守衛の建屋らしき物がある |