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   太閤蔵入地(名島)

  豊臣秀吉公は、天正15年(1587)5月15日付、加須屋内膳正あて朱印状のなかで国内統一がすみしだい、「御座」を博多に移して「丈夫に城普請」をおこない「高麗(こうらい)国へ人数差し遣わされ、御成敗なさるべき事」を告げている。さらに、九州平定(川内・泰平寺で島津家は降伏)後箱崎に赴く途中、肥後の陣中から同年6月1日付で、本願寺門跡であった光佐にだした朱印状(『本願寺文書』)のなかに「博多津は大唐や南蛮の国々の船着であるから、関白殿下御座所として普請を申しつけ、留守居として小早川隆景を在城させることにする」とある。隆景公の立場は「代官」としてのそれであり、博多の位置づけは政権下の直轄都市であった。朝鮮出兵で結果的に肥前名護屋に本陣を開き、博多の役割は「唐入り」のための「兵站基地」であった。九州諸大名が自領の港で海外貿易を行い、大きな利益をあげているため、秀吉公は九州に「蔵入地」を広げた。