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   勤行(ごんぎょう)の町

  平安期の806年、真言宗の開祖・空海が唐から博多に帰着。浜辺に仏堂を建立し、東長寺と名付けた。『筑前国続風土記』によると、寺のあった場所は「勤行の町」と呼ばれたが、やがて1字略して「行の町」となった。同風土記附録では行町(ぎょうのちょう)。境内は広く、呉服町近辺まであり、子院も多かったとされる。現在地に移ったのは戦国期。福岡藩二代藩主、黒田忠之公が手厚く保護し、墓所もある。さて、第14代福岡市長・河内家は明治時代、行町の有力な商人の一族だった。卯兵衛も1876年(明治9)、行町の糸問屋で、吉野屋を名乗った河内卯兵衛(先代)の長男として生まれた。15歳で卯兵衛の跡を継ぎ、家業に励むとともに市議会議員、商業会義所議員などを歴任した。世界大戦後の大恐慌で綿糸株が暴落して、家業は傾いたが、建設業で再起。1938年(昭和13)、第14代福岡市長に就任した。その手腕が期待されたものの、選挙違反に問われ半年余りで辞任した。