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   小早川隆景(名島城主)と黒田官兵衛(福岡城祖)

  小早川隆景と黒田官兵衛の最初の接点は、石山本願寺を毛利氏が支援したことがきっかけでした。天正5年(1577)、毛利水軍が一向宗門徒の中心地・英賀(あが)にての合戦でした。備中笠岡に陣を敷いていた隆景は官兵衛と直接対峙することはありませんでした。
  両者が相見(あいまみ)えるのは、天正10年(1582)、備中高松城合戦における秀吉と毛利方の和睦の席でした。高松城水攻めの献策、中国大返し道中における不安要素を緩和するための毛利の旗の借り受け等々官兵衛の知略に、隆景も驚きました。
  天正12年(1584)に、宇喜多氏の領国を安堵するため、秀吉は毛利氏と国分け交渉に入り、両者を代表して席に着いています。
  天正13年(1585)の四国征伐、翌年九州征伐そろって従軍しています。厚い友好関係を築くふたりの年齢は隆景のほうが一回り上になります。隆景逝去に「日本に賢人がいなくなってしまった」と官兵衛の言葉があります。