唐津街道は豊前国小倉から筑前国博多・福岡を経て肥前国唐津へ至る街道です。江戸時代に唐津街道から別れ、和白村を通って人丸神社から新宮浜に続く新道をつくりました。この道は「殿様道」と呼ばれていました。



 東区高美台と新宮町原上の境界線付近に
昔の面影を残したままの「唐津街道」があります。




和白郷土史 「ふる里のむかし わじろ」には
「殿様道」
についてこのように記述されています
  殿 様 道 (1640年頃)

 将軍が代わると、新将軍就任の御祝に『朝鮮通信使』が日本へ渡ってきた。そのお世話は通過する藩が全般的に行うこととなっていた。福岡藩は『相ノ島』に接待殿を作り、そこで全般の世話をした。その為藩の重臣、学者、時には殿様もお出ましになった。初めは唐津街道を通って津屋崎に出て、船で相ノ島に渡る道程だったが、甚だ不便のため、検討の結果、新道を通すこととなった。 即ち唐津街道の新宮町原上附近から上和白へ下り、大神神社の前へ出て、海浜をめぐり中和白から唐ノ尾。唐ノ尾の先は博多湾が入り込んでいて通れないため、対岸へ向けて防波堤を築き、山ケ下へと上る。そこから和白丘三丁目を通り、人丸神社前をぬけて新宮浜へ出る。このため新宮浜から相ノ島へと、大変便利になった。
この道を『殿様道』と呼ぶ。博多湾を仕切った殿様道のメリットとして『新開』『前田』が後に水田となった。

下和白村全字図

「ふる里のむかし わ じ ろ」より転載
 
朝鮮通信使とは 
・ 朝鮮通信使は、都・漢城(現・ソウル)から陸路釜山へ下り、そこから船で対馬~壱岐~相島(福岡県新宮町)~赤間関(山口県下関市)から瀬戸内海を経て大阪で船を乗り換えて淀川を上り京都へ至り、そこから陸路で江戸まで、およそ2000キロの距離を8~10ヶ月かかって移動した。朝鮮側からの通信使が300~500名、それに対馬藩からの案内や警護1500名ほどが加わったとされる。
・ 江戸時代に合計12回の朝鮮通信使が派遣されたが、日朝双方とも回を重ねるごとに費用負担が困難になり、12回め1811年の通信使が対馬で差し止めとなり、以降断絶した。
・ 通信使の相島来島のたびに、福岡藩によって、約1,500平米に及ぶ客館が建てられた。客館では、食事・宿泊の提供とともに、博多の文人と通信使一行による詩文の交流が行われることもあった。




 大正時代の地図上から道として残っている「殿様道」を探してみました。開発が進み現在の地図と照らし合わせると不明な箇所もありますが、大まかなコースを知ることができます。
1926年(大正15年)頃の地図 現在の地図
 
上和白村全字図

「ふる里のむかし わ じ ろ」より転載
国土地理院が発行している地図に明治時代の低湿地の地図がありました。和白地区の黄色の部分は江戸時代までは入り江、明治時代からは水田に干拓されたと思われます。殿様道が低湿地帯の縁を通っていることがわかります。



(A) 殿様道 和白丘3丁目付近

(B) 殿様道 和白東2丁目付近


(C) 新宮町原上に残る「唐津街道」
※道幅が非常に狭いので車での通行はおすすめできません

主な参考文献:
和白郷土史 「ふる里のむかし わ じ ろ」 2006 和白郷土史研究会発行


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